コラム No. 74

大学 Ridualは今、複数の大学の中で次なる脱皮を目指して改良を重ねている。この言葉ほどドラマティックな動きではないけれど、止まっている訳ではない。産学連携プロジェクトとして Ver.2 の形を模索している。 この接点のおかげで、約十五年ぶりに大学という環境に近づけた。正直なところを書けば、大学と企業とには少し溝があるように思っていた。特にWeb系の話で言えば、企業は収益を上げることから逃れられず、凄いスピードで進む技術の波の中を突き進んでいる。先進性を重視し、時代を追い越そうとさえする進み方だ。かたや大学は、もう少し学術的にキチンとやることに重きを置いているような印象があった。少し時間の流れが違う空間。「学術的」という言葉を耳にする時、互いを隔てる、何かしら冷ややかな空気が感じ取れる。 ■ しかし、ここ二年ばかりの間に触れた、「大学」は随分と違った印象を与えてくれた。先ずは、書類の消化速度。 幾つかの報告書を大学の教授達と一緒に見る機会が与えられた時のこと。ある教授は三十枚以上のパワーポイント書類をパラパラと見て、数枚めくっただけで、その報告書の核心を一言で批評した。少し私の本職と離れているせいもあって、余り熱も入れずにパラパラと項をめくっていた私は、ドキリとした。 その後に続くコメントは、その報告対象そのものの本質と、検証姿勢や方式全てに渡るもので、百を越える検証データの中からも、本質的なモノを正に端的に抽出して問題点も並べ立てた。報告者は言葉を失った。誰もフォローができない状態に陥った。しかし、教授は怒っている訳ではない。その報告の長所短所を見切って、次に何をすれば良いかを決めようじゃないか、という姿勢だった。見事。 帰りの新幹線の中で、何度もその報告書を見直した。何故、数ページでことの本質が分かってしまうのか。そのマジックは、きっと魔法ではなく、純粋に知識の蓄積の故なのだろう。Webの歴史が浅いとはいえ、流れ的にはソフトウェア工学からの影響は強く、「デザイン」という課題が増えただけとも考えられる。ソースコードに対する様々な実験や思想は既にソフトウェア工学では積み上げられているのだから、話の起点と方法論を聞けば、その行き着くところは予想できる部分が多いのかもしれない。 更に、学生や他教授のレポートを毎週見ているのだ。文書慣れしているのは確実である。報告者の気持ちまでも、読み取れるものなのかも知れない。学生の頃、いい加減に出したレポートがどんな風に見透かされていたのかを知らされる思いだ。 また、一般に、大学は企業と違って、収益と言う部分から離れて活動ができると思われがちだが、私と接点がある大学は皆、大学の予算とは別のところから予算を集めての研究も続けている。当然審査があり、評価があり、打ち切りもある。基本的な部分では企業と変わりはない。 ■ Webの世界を見つめるのに、その流れの中にいる方が見えるものと、見える時とがあると思う。また、岸辺に立った方が、見えるものと、見える時とがある。Webの世界は、今は少し自分達の立ち位置を再確認した方が良いような時期に来ているように思う。そう、急流の中からではなく、岸辺から。 世界制覇したと言われたIEのシェアが問題視され、数年間も機能追加されないブラウザへの不満も溜まっていて、そろそろ制作サイドも自分達のやり方を再整理した方が良いという話もチラホラと聞く。 大学は、従来のソフトウェア工学という分野を、言語仕様研究という枠からかなり離れて、使うユーザを直視するような「目」を持ち始めている。Web屋がユーザビリティに目を向け始めたのと同時期に、何に使われるのかどう使われるのかを課題として取上げ始めている。 エンジニアとデザイナのコラボレーション問題も、企業だと「我慢しろ」とか一言で済まされる問題を、大学では真っ向から取上げることもできる。何が理解を妨げるのか、何があれば理解が進むのか。入出力と関数やアルゴリズムの書き方だけを研究しても、「使われるシステム」を正しく構築できないことに、大学は気付き始めている。企業内部の方が目を背けている気さえする。 ■ 更に圧倒されたのが、プレゼンだった。「かっこいい~」と思わず口にしてしまうほどのプレゼンを見せられる。勿論全員ではない、それでも際立っている方が何人かいる。難しい単語が並んでいる画面に対して、平易な言葉で会場を沸かせながら、話を進める。大画面を前に舞台の中央まで出てきて、身振り手振りで説明する。見慣れている技術プレゼンとは明らかに異質だ。多分Appleの Jobs…

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コラム No. 73

迷惑電話 自席の電話がなる。独特の間合いがあって、少し馴れ馴れしく、そして直通番号ではないと想定した話し方。部署名と私の名を告げて、お願いします、と言う。私ですと答えると、失礼しましたと言いつつ低姿勢の声に変わる。初めてお電話させて頂きます、とワザとイラつかせているかのような勿体回った言い回し。要件はお決まりの税金対策として都内のマンションを買いませんか、という話。ウンザリ。 「紹介させて頂きたくてお電話しました」という台詞を聞いた途端に、「興味ありませんので」と切る事にしている。受話器を耳から離して、ガチャというまでの一秒強の間に、相手が何かを言っている声が聞こえることもあるが、気にしないことに決めている。 後々の面倒を考えて、余り無下に扱うな、と上司から指示されたこともある。大変丁重にお断りする同僚も廻りにいないこともない。先方に切って良いですね、と何度も確認し、低姿勢そのもので五分間を消費する先輩も見たことがある。でも、付き合いきれないと判断した。何故道理が通らないことに誠意を示さなければならないのか。 勿論、私の行動パターンは怒りを買う。「おまえ、そりゃねーだろう!」としつこく嫌がらせ電話をかけてきた輩も居た。電話に対する礼儀を講釈し始めた本末転倒君も居た。「今日、そっちに行くからな!」と啖呵を切る輩も居た。受話器をたたき付けたくなるような怒りがこみ上げる。時間がたっても社名と名前を言える程腹立たしい。勿論誠意を示す気にはならない。そんな商売やめなさいよ、先ず。迷惑以外の何ものでもない。 ■ 私の電話番号と私の名前をセットで持っていて、それが何かしらの営業活動に使われているのなら、それは誰かがその情報を売買したと考えるのが筋だろう。それは名刺交換をした人かもしれないし、ネット上で何かに登録したものかもしれない。しかし、私に電話がかかって来て、無下に切ると、近くの電話が鳴る確率が高い。そして、同様の数秒の待ち時間があり、興味ありませんので、という声がする。大抵の場合、会社と部署ごとにソートされている名簿が先鋒の手元にあるのが見える。売ることを前提に収集された情報が組織的に集積されている。 そうした名簿がどれほどの値段で売買されるのか知らないが、個人情報ネット流失のときに話題になった金額では、数十万人で数万円というレベルだとも聞いた。個人としての情報提供者の懐に入るのは数千円を越えるとは思えない。そんなアブク銭を、そんなやり方で手にして嬉しいのか。 名簿を売って数千円を手にして、その結果、腐るほどの腐った電話が誰かを苦しめ、無下に扱うことで実際に殴りに来る輩もいるかもしれない、刺されてもおかしくない時代なのかもしれない。命に関わるケースは身近では知らないが、少なくとも、しつこいふざけた電話のおかげで、消えてしまったアイデアは一つや二つではない。 Ridualの開発が進まないことの理由にできるほどではないが、迷惑電話は決まって大切な思索の時や何かを急いで作っている最中にかかってくる。電話の主は、こちらが何をしているのか知っていてワザと心を乱す方式で迫ってくる。Ridualのような孤軍奮闘型プロジェクトでは、常にもやもやとしたイメージを追いかけるような毎日だ。アイデアが自分の心の何処かにあるのが分かっていながら、その尻尾さえ掴めないもどかしい毎日。そのアイデアがふざけた迷惑電話で、心の奥底に再び姿を消す。 私はWeb開発に於ける最大のキーワードは「時間」だと思っている。何であれ、時間を浪費させるものを「悪」だと決めて、それに対して勧善懲悪的に進むにはどうすれば良いか、と考えるように努めている。長時間ミーティングも、おバカなUIのおかげでイライラさせられるデータ入力も、誰かに聞かないと訳が分からないシステムも、読まれないと分かっているドキュメント作成も、全部可能な限り排除すべきだとして、排除しきれない部分で悶々とした毎日を送っている。Ridualも大元は、間接的業務の多さと煩雑さが、直接的業務(Web開発)の時間を圧迫しているという観点からスタートしている。 それが、全くの第三者が更に時間を奪おうとするのだ。「モモ」の時間泥棒とは次元が違う。もっと悪意がある。他人を自分の都合で扱って何が悪いと言う開き直りに近い嫌らしさが付きまとう。 ■ そして、この迷惑電話に対する嫌悪感で許せない事がもう一つある。Web案件に似ているところだ。 Webプロジェクトは最早黎明期の夢を追うようなモノではなく、ビジネスとしてキチンと成立させるべきものに育っているように私の目には映っている。それは、投資があり収穫があるという世界だ。そしてそうした現実をWeb屋の現場はひしひしと感じているにも拘らず、少ない投資で甘い汁を夢見る層は減っていない。そうしたプロジェクトに関わると少し気分が悪くなる。キチンと投資すべきところで投資しないで、何が刈り取れるのか。 迷惑電話が売ろうとしているものは、どんな物件か知らないが、不動産である。売買するには、それなりに役所が絡むような書類が必要だろうし、動く金額も小さくはない。れっきとした真っ当なビジネスだ。なのに、広告費をケチっている。 既存メディアに広告を打つ訳でもない、Webや口コミの流れを作る努力もしない。尋ねても答えられない経由で名簿を入手して、会社の自席に居るという状況を逆手にとって、電話をかけて勧誘する。誇れる素材なら正々堂々と広告して、そうしたものが売れる土壌を作れば良いじゃないか。 Web開発の何処に何を投資すれば良いのかを伝えているにも関わらず、Web屋の良心と変な「なぁなぁ態度」で仕様が膨らんでいく状況に似ている。断りにくい状況を理解しつつ逆手にとっている。収穫を得たいなら、不正な道や安易な道に進まずに、キチンと種を蒔けば良いのに。 迷惑電話に腹が立つのは、実は安直な道で安直に刈取ろうとする者への怒りなのかもしれない。こうした方法が通用しないということが早く常識になって欲しい。 以上。/mitsui…

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コラム No. 72

月刊下水道 まだ夏のことだったが、いつもの電車の乗り込むと、二十台後半程の青年が立ちながら一生懸命雑誌を読みふけっていた。一見論文集調のその雑誌が気になって、チラチラと見てしまった。彼が閉じる瞬間に見えた雑誌名は、「月刊下水道」。少し我が目を疑った。 会社について、早速検索をした。あった。しかも、失礼ながら極めてまじめな雑誌だ。本当に失礼だと反省したが、最初に抱いたのは、「そんな月刊誌があるんだ」というもの。 次号を含めて最近の特集を紹介すると、以下のようになる: 2004年9月号「いま、下水道のPR」 下水道の日特別企画/海外で活躍する下水道ビジネス」特集 2004年10月号「日本の真ん中で、管路への愛をさけぶ」中部地域特集 2004年11月号「地域が求める下水道技術」九州地域特集 2004年12月号「推進・シールドの底力」特集 2005年1月号「新春特集/下水道ゼロの焦点 ―機能喪失と再生への道―」 「新春特別企画/魅力の下水道光ファイバーFTTH」 自分の専門性が上がってくると、自分の世界しか見えなくなる。そんな例だったのかもしれない。私はネットがなくては生きていけない体になったと公言するが、それよりも下水道の方が確実に大切だ。なくてはならない。二択を迫って、ネットを選ぶ人は居ないだろう。 しかも、その普及率においてインターネットは確実に及んでいない。上下水道のそれが日本は群を抜いていると、昔高校の時に習った。ライフラインの要となる上下水道の普及率を、地理の先生が自分の自慢話のように語っていたのを思い出す。 インターネットを「ネット」と呼ぶずっと前から、日本中に様々な「網(ネット)」が張り巡らされているのを思い出す。そういったモノに自分達の生活が支えられていたという当たり前のことを考えなくなっていた自分に気が付かされる。ネットって、現実や情報と人とを結びつける場なのに。最近仮想の方にばかり頭が寄っていた。 更に、ライフライン系はお役所的なイメージで捉えていたのだが、この雑誌の目次を見る限り、なんだか熱い。熱がこもっている。さすがに購入したところで理解できないだろうから中身は見ていないが、Webのページの次回予告の部分もかなり熱血な文書が踊る。いま、インターネットの雑誌で大真面目に「愛をさけぶ」と熱弁奮う人は少ないだろう。既刊の目次情報掲載も、通常の雑誌ページよりもキチンとしている(情報提供する意思が見える)気がする。編集者が熱いのか、読者が熱いのか、その両方なのか分からないけれど、少なくとも「死に体」の雑誌には見えない。 ■ そして、その読んでいた青年が何だか印象深い。全然オタクっぽくないし、そのまま真っ当な道を歩んでいくだろうと思わせる、昔ながらの好青年だった。何となく、Web業界の人たちと比べてしまう。彼がWebの本読んでたら、まともに見えすぎて、大丈夫かな…と心配になる気がする。この業界は、少しぶっ飛んでる部分があった方が有利の気が捨てきれない。 と、ここまで考えて、我がWeb業界を思い返して、少し不安になる。月刊下水道を読んでいた彼が、このまま電車の中でも勉強を続け、勤勉な技術者か監督者になって、家庭を築いて、平穏無事な生活を送るというのは、何となく想像できてしまう。大きなお世話なのは分かっているし、どの業界も人的移動は激しそうだから、そんなに安穏としたものではないだろうが、それでも多くの人の連なりでその業界が支えられて継続していく様が予想できる。 今、Web業界の人達を見て、彼らの(私のでもあるが)人生が何となくでも予想できるのだろうか。どの企業もそれなりのホームページを掲げるようにはなった。しかし、その道のプロとして、生活に根ざした「暮らし」を継続できるように、どれ位の人達が感じているのか。 当たり前に仕事に打ち込んで、上司から学び、友人から学び、部下に教え、それなりにウップン晴らしをして、結婚して(しなくても良いが)、子供と関わり(間接的ででもいいが)、社会と関わり、幼稚園や学校と関わり、ご近所さんと関わり、時々は真っ当な料理を食べ、時々は旅行を楽しみ、時々はオフラインを楽しみ、両親親戚と付き合い、甥っ子達にネットを教え、年金を計算し、老後を想い、時には早く帰って、時には庭掃除もする、そして当然自分の仕事に誇りを持つ、そんな当たり前の生活が先に見えているのだろうか。…

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コラム No. 71

種蒔き:場とコンテンツ USの某マルチメディア企業のプライベート・カンファレンスに参加してきた。三日間、朝から晩までセミナー漬け(初日は8:00-22:30、少々殺人的)。今回はカンファレンスの内容ではなく、その環境について感じたことを。 ここ数年、年に1~2度、海外のカンファレンスに参加させてもらっている。名の知れた大都市ばかりだが、行く度に感心させられることがある。それは会場。大抵の都市に、その中心付近に幕張メッセ並みの施設がある。しかも、それは最新の施設ではなく、それなりに歴史が刻まれていそうな風情で存在している。 建物としての古さは、参加者としてはさして気にならない。エレベータとかトイレはさすがに古いとは感じるが、音響もネットも最新になっているので低評価材料にはならない。むしろ、カンファレンスなりセミナーなりのコミュニケーションが、それなりの形で開き易くなっているように見えて羨ましい。 最近、RIAコンソーシアム等でセミナー開催などに関係するようになって、会場探しに困っているので、尚のことそう思う。経費の比較的安い古い会場はネットや音響、それにプロジェクタがそれなりに貧相だ。設備の充実している所は、それなりに高い。小規模の勉強会をしたい場合や大規模に集客したい場合など、ニーズは様々だけれど、毎回苦労するのは都心の会場選び。 古びた会場の壁を眺めながら、USはこうした施設を早くから作って、こうしたコミュニケーションの場を広く提供してきたんだなぁと想う。どんな大きな会場でも講演者に質問を投げかけられる米国人は、USの教育方針に依るものだとばかり想ってきたが、こうした「場」が一般的に使われている、というのも一因なのかもしれない。 奇しくも、そのカンファレンスのキーノートで語られた言葉は「対話」。従来その企業は独自に機能開発を進めて新製品や新版をリリースする、という手法で業界をリードしてきた。しかし最近それを修正していると言う。顧客と話す時間をとり、β版(或いはα版)を提供して、満足度調査をする。しかもそれを繰り返し、複数の顧客を回っている、と。少々独善的な機能追加が気になっていただけに少し驚き、かなり感動した。 ■ 良いモノを作り続けるには、やはりアイデアの枯渇が最大の敵だろう。その一番の良薬はコミュニケーションではないだろうか。一人のアイデアマンが吐き出せるアイデアには自ずと限界がある。様々な意見に触れ合う場所を、仮想的な場だけでなく、現実の場でも持とうとする時、その実現の敷居が低ければアクションに移しやすい。 建物だけ作って魂入れず、というのは日本的な手法を否定的に言う時によく使われる言葉だ。しかし残念ながら、「対話」の場所としての「建物」は余り作られずに来たのかもしれない。箱(建物)さえあれば、もっと様々な交流が生まれる土壌ができているだろうに。ネットのような凄いスピードで変わり行く急流の時代には、そのような先見の明のなさが悔やまれる。 世界一土地代の高い国だから、低料金で使えるコンベンションセンターを作るのは無理だったのかもしれない。逆に維持費とか回転率とかの理論で、税金をそうしたところに投入することに勇気が必要だったのかもしれない。でも、何かを活性化する支援土壌としては、そういう種蒔きが欲しくなる。 場がないから気軽に集れない。集らないから場が作られない。卵と鶏の議論ではあるけれど、各種セミナーの動向を見ていると、今は場がないことが何か活性化に対する足枷になっているように感じる。「遠くの大規模展示会より、近くのプライベートセミナー」、と望む声が強まっている。 ■ USに行く度に感じるもう一つのことは、各種コンテンツへのアクセスを身近に感じること。カンファレンスやセミナーがリアルタイムの「対話」であるなら、DVDやCDなどは時間を越えた対話だと思う。日本でのDVD等の値段が下がってきているとは言え、やはりUSの方が安い。日本語訳という工程が入るので割高なのはある程度はしょうがないが、解せないのは、日本の名作がUSの方が安いという事実だ。 今回は、US仕様の「七人の侍」を買ってきた。私は家ではMacユーザで追加のDVDドライブをリージョンコード1にしているので、視聴には何も障害がない。新作ではないので、リージョンコードの理論にも抵触しない。そもそも日本映画なので、日本語が入っている。それが三千円程度で売られている。 恥ずかしながら、私はこの名作を三十路を過ぎてから見た。今まで見なかったことを心底恥じたし、もっと早く触れていたら人生が変わったようにさえ思った。そして、自分の怠慢を棚に上げ、こうした名作コンテンツに気軽に触れさせない価格帯に腹を立てた。 黒澤作品だけでなく、日本映画は洋画に比べて、気軽に所有する気になれない価格のものが多い。それがUSでは安い。更に大都市では、図書館も充実していて、名作映画などは勉強する意思があれば、洋の東西を問わずにほぼ無料で見ることができるという。羨ましいとしか言い様がない。 日本に居ながら、日本名作に触れる敷居が高い。こんなに勿体無いことはない。 私は漫画とか映画に沢山のことを教えられてきたので、学校の授業に一回/週で良いので、名作鑑賞の時間を義務付けるべきだとすら考えている。年相応に、国際的にも誇れる名作で見ておくべき作品が多々ある。黒澤作品もジブリ作品も然りである。 どんな有能な先生でも、名作映画に込められた情熱に勝るものを、同じ2時間程度で語り続けるのは不可能ではないだろうか。子供たちの情操教育とかユトリ教育とか理論的な進め方よりも、週に一回学校を映画館にして、思いっきり笑わせ、泣かせ、感動させた方が手っ取り早く堅実だと思う。…

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コラム No. 70

トロン トロンと聞いて心の中で「頑張れ」と呟く業界人は未だいるように思う。 十年程前この国産OSを学校に導入する計画があった。それに対して輸入障壁だと異議を唱える「外圧」によって、この計画はあっけなく頓挫する 。この時点で、トロン支援派は三つのグループに分かれる。トロン支持層、国産支持層、そしてその外圧母体を嫌うが故の支持層。 トロンは国産という「ブランド」がなくても充分に興味深い機能を持っていて、トロン支持層はかなり強固なものだと言って良い。しかし、この頓挫が響き、パソコンOSとしての表舞台からは事実上消えていった。でも、年に一度は取り上げる雑誌が現れ、PDA用OSとして現れたり、ファンの期待感を維持してきた。 トロンの特徴の第一は、その軽さ。より重厚に、より高性能CPU的に、と深化を続ける業界にあって、トロンは明らかに異なる方向性を持っていた。そして、トロンは適応分野によって幾つかに分化する。その中で、最も軽さに着目して進んでいったのが、現在「Tエンジン」と呼ばれるモノであり、「組込み」の世界での標準と呼ばれる地位に達している(シェア9割以上)。 私達の生活を支えてくれるモノには、CPUや消費電力がかなり小さいのに、ある程度の演算処理をしてくれるモノが多数存在する。その標準インフラにトロンは事実上なっている。代表はRFID、IDタグと言ったほうが分かりやすいか。究極的には全てのモノにこのRFIDがついていて、ある決まった手続きに沿った尋ね方をすると答えが返ってくる世の中を目指す。野菜に聴けば、生産者を答えてくれ、牛乳に聴けば生産日を答えてくれる。自分が身につければ、かなり柔軟な自己紹介マシンになり、セキュリティ系にも活用できる。 そうした状態をユビキタスと呼ぶ。鳥や虫の声を聴いて、庄屋の娘の命を救う「聞き耳頭巾(ききみみずきん)」状態と言ってもいいのかもしれない。ユビキタスをどこでも通信できる、ネットできると解釈するよりは現実味があるように感じる。何しろ、そのIDタグの単価が凄いスピードで下がっているからだ。全製品に行き渡るには時間がかかるだろうが、限定的な実現は全然夢物語ではなくなってきている。 ■ そんな話を、Macromedia Flash Conference 204(2004/10/22)のキーノートで坂村教授が熱く語っていた。Flashとトロン、その接点は「組込み」。既に多くのデバイスにFlash Playerは搭載されている。液晶さえあれば、様々なユーザインターフェイス(UI)がFlashだけで作れてしまう。軽さを目指す分野のベストマッチングの好例と言える。 でも、坂村氏のメッセージは、そんな技術動向の紹介ではなかった。デザイナに対する新しい分野への「お誘い」だった。 自分の身の回りにある全てのモノが自分が何物であるかを自己紹介しだす世界、交差点自体が自分がどことどこの接点であるかを説明できる世界、商品にかざせばそのCM映像がその場で見れる世界。RFIDはそんな世界の入り口であり、現時点で基本動作はしている状態だ。そこで、そうした情報を、どのように「伝える」のか。子供だましのオモチャが録音テープをオウム返しする状態は期待されていない。自己表現する物体を人間が分かりやすく受け取れるようにする「フィルタ」が必要になってくる。情報の視覚化というUI。 情報の視覚化というとグラフを頭に浮かべる方も多いだろう。多くの数字データを一目で分からせるには、棒グラフやパイチャートが良く使われる。では、天気予報系だとどうだろう。晴れを「晴れ」と書くよりは、太陽マークの方が伝わり易い。では、その配置はどうだろうか。…そう考えると実は多くのデザイン要素が絡み合って、「分かり易さ」は構成されている。 聞き耳頭巾ON状態は、膨大な情報に囲まれることを意味している。しかし、そのままでは人間は判断に疲れてしまう。判断を支援するツールが必ずや求められる。その発想は、数値データの正確さを求め続けるエンジニア系からは生まれない。ユーザビリティや使いやすさを求めるデザイナの領域から生まれてくる。そんな読みの下でのお誘いだろう。 但し、実際にその会場には、6割強がデザイナ系、3割ちょっとがエンジニア系だったと思うが、半分ほどが睡魔に負けていたように思う。自分達とは関係のない話に映ったのだろう。ボタン配置系の画面設計や画像編集系の人には、そう見えるのかもしれない。 それでも1割強の人達は目を輝かせてステージを見つめていただろう。次の世界をもう夢想し始めている人達が何人もいたはずだ。大きな種まきの瞬間だったように思う。…

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