コラム No. 76

クリスマス もう何年も前の作品だけれど、「おやこ刑事(デカ)」(大島やすいち/林律雄)というマンガが好きだった。幾つもの輝く短編の中で、クリスマスの話を未だに思い出す時がある。デカ仲間で、プレゼントに何をもらったかを語る場面。 一癖も二癖もあるデカ仲間が昔の思い出を順々に話す。子馬をもらったというご令嬢のあとに、主人公の「文吾」が父親から将棋を教えてもらったという話をする。文吾は父子家庭で、クリスマスの朝に、刑事である父とプレゼントの約束をする。早く帰ると約束した父は文吾が寝てから家に辿り着く。足音を忍ばせて部屋に入っ行く途中で約束を思い出す。 文吾が起きる。父は謝るしかない。困った父を前に、文吾が将棋台を運んでくる。形のない大切なプレゼントを受け取った話を文吾が語る。下町の警察署が舞台。その話を聞くデカ仲間の全員がしんみり暖かくなる。その夜も、現職のデカである父は息を白ませながら張り込みをしている。 ■ そんな話に共感を感じるような環境で育ってきた。でも、もっと暖かな家庭を目指したいと思ってきた。でも気がつけば、いつも深夜帰りになっている。今更ながら気が付く。息子も娘も大切な時期を過ごしている。私は、父親デカ程に、何かをこの子達に手渡せているのかと。 積極的に子供たちに何かを教えていたのは、少し前の三年間。当時私は所属するキリスト教会の日曜学校の先生をしていた。始まった時は、生徒が五人。そのうち我が子が二人。毎週日曜日、礼拝が始まる前の三十分、ミニ礼拝という形で聖書を一緒に学ぶ。 実を言うと、私のプレゼンのスタイルはこの時の経験から生まれた。Flashで描いた紙芝居を前に熱っぽく語るスタイル。大抵は土曜日の昼頃から、何をどう語ろうかを練っていき、夜にタブレットを使って絵を描き始める。出来上がるのは、深夜から早朝。三人の先生で持ち回りをしたので三週に一回、そんな生活を送る。きつかったけれど、場が与えられていたから続けられた。 プレゼンを指導してくれるのは、牧師ではない。目の前に居る子供たち。子供たちは残酷だ。興味を感じなければ何も耳に入れない。セミナーで眠られるよりも、目も前で鼻をほじられる方がこたえる。「あー、つまんない!」叫びだす子も居る。授業参観でも知っているが、子供たちは大人の話を聞くことに何の敬意も払わない。プレゼンの練習をする場としてこれほど効果的な場はない。 幸いFlashプレゼンは子供たちには受けた。とは言っても、語る内容は聖書の話である。誤解している人が多いと思うが、聖書は信仰心篤い善良な人達の話ではない。基本的に神に背を向けた人達の苦悩の歴史である。そもそも子供たちが喜んで聞く題材ではない。でも、当初の五人が三年間の間に十人強になり、何人かの親まで参加するようになった。 平日我が子と接する時間は取れなかったが、自分の子供も含めた集団に接する親の姿を見せれたのは良かったように思う。生活の主軸を「仮想」に置いているがこそ、リアルな子供たちとの接点は大きな支えになった。 そして、子供たちばかりではない。教会という場所は、規模の大小に関わらず、大抵がまさに老若男女が集う場であることが多い。赤ん坊からご老人までいる空間は、独りよがりのユーザビリティ感覚を壊してくれる場でもあった。年齢幅を考えると、文字や言葉の認識も、食事についても、ゲームにしても、一つの形で全員が満足することはまず在り得ない。それが目の当たりにできる。私はWebに適応可能な多くのことを教会で学んでいる。 ■ それにしても、世界中の人が一人の男の誕生と死の場面を漠然と知っている。不思議な話だと思う。イエス・キリスト。信仰の有無も含めてその捉え方は様々だし、クリスマス自体も商業主義的な色彩が強まってはいるが、何かしら人の気持ちを潤す響きは失わない。 「人を殺すなかれ」、神が人に示した戒めの最初の言葉。その言葉の書を引用して戦争が開始され、殺戮は止まない。宗教という言葉でくくられた政治が立ち往生している。信仰、自分の心の中心に何を置くのか、2004年はそれらが厳しく試されたように感じる。それでも、この時期のケバケバしいネオンの下でさえ、クリスマスに、何かしら人の気持ちを潤す響きは失われていない。 クリスマスが12月とされたのは、本人の誕生から随分と経ってからのようだ。冬至という夜が最も長い日、翌日から陽の照る時間が徐々に延びる日。闇が次第に追いやられて行き始める日。それがイエスの誕生日に相応しいとされた。 誕生はこの世で一番みすぼらしい場所。馬小屋はともかくとして、最初に置かれた場所は、飼い葉桶。餌の入れ物である。出産を経験したり立ち会ったことがあるならば、それがどれほど非常識かが分かる。同時に、そこに入れざるを得なかった両親の痛みも。神の子が、神々しい光と共に天井に降り立つのではなく、この世で一番底辺に現れた。しかも、赤子という一番非力な姿で。 クリスマスという言葉の神聖さは、光り輝く神々しさではなく、闇の中にかすかに一つ灯ったキャンドルのような光に感じる。そして、それは、マリヤとヨセフという、これもまた恵まれているとは言い難い二人が、喜びながら赤子を授かるという場面に集約されている。 普通の家族の営み。普通の家族の喜び。その「型」がここにある。苦しさの中にあってさえ、馬小屋で生まれた子供を想うと、その子の祝福を願いたくなる。同時に、こんな自分でさえ祝福に預かれる、預かって良いのだと思える。教会学校で子供たちに伝えることの大半は、ここにある。あなたは愛されていますよ。こんな赤面するような台詞を大真面目に語れる場は他に思い当たらない。 ■…

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コラム No. 75

もてなしと配慮 RIA(Rich Internet Application)システムを提案・設計する時、「おもてなし」という言葉が殆ど常に目の前に現れる。お客さんが何かを探す時さりげなく支えるような、どこか心憎いと言われるようなサービス。それをアプリケーションで作ろうとする。 オンラインで買物等をする「ユーザ層」は確実に広まっていて、しかもそれが常識的な行動になりつつあるディープ層も確実に膨らんでいる。セキュリティ等をまだ使う側も気にしなければならないとは思うけれど、実際に足を運んだり、電話をして注文することすら、少し億劫だという空気は出始めている。 いくつものオンラインショッピングサイトでの経験を重ねながら、どんな購入方法が便利かとか、どんな時にどこのサービスを活用すべきかが、一部の業界人以外にも、見えてきている。そして、必然的に、情報を得る場所と、購入をする場所との棲み分けもはっきりとしてきたように感じる。 利用者に馴染みの店ができてきた状態で、新規に店を出すのなら、既存顧客を振り向かせる「何か」を用意しなければならない。先ずはプレゼント。そして、手数料とか送料など直接的なもの。会員特典やポイントも有効だ。でも、それらだけでは長続きしなくなって来た。そうした作られた魅力が色褪せてきている。当たり前になって来たといっても良い。長く使い続けるには「使い勝手の良い」環境の大切さを、ユーザ自身が見始めている。 ■ ユーザビリティ。使い勝手。長い間、定量的に証明しなければ、実装予算を確保できなかった分野に明かりが差して来ているのかもしれない。未だに、Webデザインが見栄えを中心とした「お化粧直し」と思っている層に、実は「サービスのデザイン」をしていたことをユーザ動向が示し始めている。 「格好良い店」でショッピングをしたい人達もあるだろうが、多くは「便利な店」で買物をしたがっている。その問われている「便利さ」の定義が膨らんでいて、その実装方法も拡大してきている。RIAはその最先端に位置しているように思う。 誰かが何かを買うときに、何を便利とするのか。それがどれくらい複雑なものかは、実店舗に数時間も座っていれば分かる。土地柄もあれば、趣味もある、個人差も性差もあるだろう。優れた店員は、顧客の容貌を見て、何らかの判断をし、適したモテナシを選んでする。人間の対応能力の幅の広さだ。 それを相手が誰であるかも告げられないWebアプリケーションが代行しようとしている。見た目には、ドラッグ&ドロップで商品が選べたり、商品比較が一目でできたり、少し派手目な「機能」に注目が集る。しかし、その設計思想の根底には、「おぉよく気が付くじゃないか」とか「なかなか察しが良いねぇ」とモニターの前ですら言葉にしないような褒め言葉を狙うような洞察がある。 人がある特定の情報や商品を選ぶ時、どんな行動を取るのか。紙に書き出す、冊子のページに付箋を貼る。比較表を作る。友達とワイワイ議論する。そんな一つ一つの行動を頭に浮かべて、Webデザイナは一つ一つの「機能」に分割する。多くの分割された「機能」は最早技術的に実装可能なところまで来ている。絵の具を選び重ね絵を描くように、個々の機能を丁寧に並べ、つなぎ目が見えないように縫い合わせ、一個のWebアプリケーションの形をした「サービス」に仕立て上げる。 勿論、これらはRIAシステムでなければできない話じゃない。HTMLだけでも、昔から成されて来た道だ。優れたサイトはそうできていた。ユーザをそれとは気付かせないで満足という出口に導く見えない導線。それに感動したし、憧れた。それが、針と糸しかなかった時代から、機能的なハサミやミシンを駆使できる時代になっただけで、仕立て屋さんの気概に変化はない。 ■ でも、ふと立ち止まると、実生活で「おもてなし」の根底の「配慮」に触れることが減ってきている。笑いながら割り込み乗車をする人。降りる人を掻き分けて先に電車に乗り込む人。自動改札機の前まで来て立ち止まって切符を探す人。狭い道を数人で横に広がって道をふさいで歩いていく人達。10メートル先の人に話しているのかと思うほどの大声で携帯で馬鹿笑いする人達。この時代になっても、廻りに霞がかかっている程に煙草を路上で吸う人達。 私自身たいして礼儀正しい訳ではないが、以前は少し考えれば避けて当たり前のことばかりだ。心を配ること自体が退行している。或いは、そんな余裕もなく生活に流されている。日本人の奥ゆかしさはおとぎ話のファンタジーにさえ思ってしまう。 こんな時代に、次のWebデザイナを目指す人達を心配する。ちょっとした気遣いも減っていく実生活の上で、「おもてなし」をデザインして行くのだ。厳しい道のりだと思う。強靭な自己と理想と夢がなくてはやって行けない。 ■ 先日セミナーで聞いた話だが、米国では4年前の大統領選の時から選挙をより民主的に行なう活動が政府主導の下で行なわれているそうだ。その活動の一つは投票所のユーザビリティを向上させるという形で進められている。その業務を請け負ったのは、コンサルタント屋さんではなく、Webデザイン屋さんだったとのこと。…

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コラム No. 74

大学 Ridualは今、複数の大学の中で次なる脱皮を目指して改良を重ねている。この言葉ほどドラマティックな動きではないけれど、止まっている訳ではない。産学連携プロジェクトとして Ver.2 の形を模索している。 この接点のおかげで、約十五年ぶりに大学という環境に近づけた。正直なところを書けば、大学と企業とには少し溝があるように思っていた。特にWeb系の話で言えば、企業は収益を上げることから逃れられず、凄いスピードで進む技術の波の中を突き進んでいる。先進性を重視し、時代を追い越そうとさえする進み方だ。かたや大学は、もう少し学術的にキチンとやることに重きを置いているような印象があった。少し時間の流れが違う空間。「学術的」という言葉を耳にする時、互いを隔てる、何かしら冷ややかな空気が感じ取れる。 ■ しかし、ここ二年ばかりの間に触れた、「大学」は随分と違った印象を与えてくれた。先ずは、書類の消化速度。 幾つかの報告書を大学の教授達と一緒に見る機会が与えられた時のこと。ある教授は三十枚以上のパワーポイント書類をパラパラと見て、数枚めくっただけで、その報告書の核心を一言で批評した。少し私の本職と離れているせいもあって、余り熱も入れずにパラパラと項をめくっていた私は、ドキリとした。 その後に続くコメントは、その報告対象そのものの本質と、検証姿勢や方式全てに渡るもので、百を越える検証データの中からも、本質的なモノを正に端的に抽出して問題点も並べ立てた。報告者は言葉を失った。誰もフォローができない状態に陥った。しかし、教授は怒っている訳ではない。その報告の長所短所を見切って、次に何をすれば良いかを決めようじゃないか、という姿勢だった。見事。 帰りの新幹線の中で、何度もその報告書を見直した。何故、数ページでことの本質が分かってしまうのか。そのマジックは、きっと魔法ではなく、純粋に知識の蓄積の故なのだろう。Webの歴史が浅いとはいえ、流れ的にはソフトウェア工学からの影響は強く、「デザイン」という課題が増えただけとも考えられる。ソースコードに対する様々な実験や思想は既にソフトウェア工学では積み上げられているのだから、話の起点と方法論を聞けば、その行き着くところは予想できる部分が多いのかもしれない。 更に、学生や他教授のレポートを毎週見ているのだ。文書慣れしているのは確実である。報告者の気持ちまでも、読み取れるものなのかも知れない。学生の頃、いい加減に出したレポートがどんな風に見透かされていたのかを知らされる思いだ。 また、一般に、大学は企業と違って、収益と言う部分から離れて活動ができると思われがちだが、私と接点がある大学は皆、大学の予算とは別のところから予算を集めての研究も続けている。当然審査があり、評価があり、打ち切りもある。基本的な部分では企業と変わりはない。 ■ Webの世界を見つめるのに、その流れの中にいる方が見えるものと、見える時とがあると思う。また、岸辺に立った方が、見えるものと、見える時とがある。Webの世界は、今は少し自分達の立ち位置を再確認した方が良いような時期に来ているように思う。そう、急流の中からではなく、岸辺から。 世界制覇したと言われたIEのシェアが問題視され、数年間も機能追加されないブラウザへの不満も溜まっていて、そろそろ制作サイドも自分達のやり方を再整理した方が良いという話もチラホラと聞く。 大学は、従来のソフトウェア工学という分野を、言語仕様研究という枠からかなり離れて、使うユーザを直視するような「目」を持ち始めている。Web屋がユーザビリティに目を向け始めたのと同時期に、何に使われるのかどう使われるのかを課題として取上げ始めている。 エンジニアとデザイナのコラボレーション問題も、企業だと「我慢しろ」とか一言で済まされる問題を、大学では真っ向から取上げることもできる。何が理解を妨げるのか、何があれば理解が進むのか。入出力と関数やアルゴリズムの書き方だけを研究しても、「使われるシステム」を正しく構築できないことに、大学は気付き始めている。企業内部の方が目を背けている気さえする。 ■ 更に圧倒されたのが、プレゼンだった。「かっこいい~」と思わず口にしてしまうほどのプレゼンを見せられる。勿論全員ではない、それでも際立っている方が何人かいる。難しい単語が並んでいる画面に対して、平易な言葉で会場を沸かせながら、話を進める。大画面を前に舞台の中央まで出てきて、身振り手振りで説明する。見慣れている技術プレゼンとは明らかに異質だ。多分Appleの Jobs…

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